定年のない人生なので還暦を迎えた時も特に感慨は無かった。肉体労働者が歳を摂ったと思うのは、数字より、酷使してきた身体が痛みで動かなくなったり、体力の衰えを感じる時なのです。
それとおなじように家族がそろった時にふと震災の話題が出ることが時々ある。
震災後10年間はコンクリート製の賃貸マンションにお世話になった。
震災後、蛍光灯のスイッチの紐が、微かに揺れるのを見ても、『すわ、地震か!』と 家族皆が神経質になっていた感覚も、10年が過ぎるころにはいつの間にか、薄れていった。
この2,3日、TVで震災関連の映像が流れるのを見るとあの時の感覚がよみがえる。
未明のまだ暗い中、小さな古い木造住宅に住んでいた4人家族は6畳の居間に布団を川の字に並べて、まだ寝入っていた。
突然、遠くから どどどどど~っと何か巨大なものががこちらへ近づきながら走ってくるような地響きを聞いて目が覚めた。
突然大きな揺れ。 何とか反射的に飛び起きて、家内や子供達の上にタンスが倒れないように抑えるのに必死だった。
家中物が倒れたり落ちる音、どこかでガラスが割れる音。頭の上からタンスの上の人形ケースや何かが落ちてくる。
『布団の中にもぐれ~』と子供たちに叫んだのを覚えている。
明かりが点滅する中、目には家がひし形に変形しながら揺れるのが判る、もう家が潰れる、もうダメだと思ったが、やがて揺れは収まった。
天井裏から落ちてきた埃のもうもうと舞う中、皆に靴を履くまで布団の中から出るなと言い、玄関に行き家族の履物を取り、皆に渡した。
冷え込む、早朝の外に飛び出すと2戸一の我が家は屋根瓦がすべて動いてズレ、お隣の屋根の端は少し隣のマンションのほうに傾いていた。
お向かいの屋根瓦も壊れて落ちたり下地がむき出しになっている。
ようやく明るくなり始めた中、隣の3階建てのマンションの壁には横に数本亀裂が入っていた。近所の方たちも皆外に飛び出している。そしてそのコンクリートのマンションの方たちも皆、『もう家が潰れる、もうだめだと思った』と口々に言っていた。
ガスのにおいが辺りに立ち込める。何処からか消防車や救急車のサイレンが近づいてくる・・・・・・。
幸い豊中市で被害が大きかったのは我が家の周辺の地盤の悪かった地域だけで、家族にも怪我は無く、ご近所でも火事にもならず、大怪我をした方もいなかった。
数日後、ブルーシートを知り合いからかき集めてお隣のご主人と屋根に張った。
慣れない屋根の上での作業で翌日はふくらはぎがパンパンになったのを覚えている。
そのまた数日後には2輪車を持っている、ボーイスカウトの有志が集まって数回、西宮市の市役所まで、おにぎりや炊き出し、生活物資をかき集めて運んだりした。
4輪車はまだ一部の道路しか走れず大渋滞し、2輪で裏道を縫うように走って西宮までたどり着いた。途中の道路では高架橋が落ち、山陽新幹線の高架の柱に亀裂が入って鉄筋がむき出しになっているのをこの目で見た。西宮の国道沿いでは木造住宅が何軒も潰れ、行方不明者を捜索作業をしているのも目にした。
毎年、1月17日が来るたびに震災を思い出してしまいます。この日を一生忘れることは無いでしょう。子供からお年寄りまで、皆が生まれてこの方、経験したことが無いほどの怖い経験をしたんです。
そのうえ家族を失った方たちのお気持ちはボクには想像もつきません。
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震災後は風邪をひいたり、不眠症なったりし、実家にしばらく世話になったりしましたが、一か月後には近くの賃貸マンションに引っ越すことが出来ました。
家内は何時の頃からかマンションの重い鉄扉の閉まる、ガチャンと響き渡る音が嫌だと言いだしました。ボクはコンクリートの建物は安心して眠れるので良いと思っていたんですが。
そして今、凝りもせずまた古い木造住宅に引っ越して住んでいます。
何時も2階の寝室で寝ている僕は、一階の居間で寝るのが習慣になった家内に、それだけはやめてほしいと思い続けている。何もこの年になって一緒に就寝したいからではありません。
今度もし大震災があって万一家が潰れてしまったら、妻を下敷きにして自分だけ生き残るなんてことは絶対に嫌ですからね。