サイクリングエッセイ Hirobee's A day in the life

北摂里山のサイクリングとひろべぇの平凡な日々を綴ります。

九月になって

9月になって最初の土曜日、二人目の孫の誕生後ひと月が経ち、初宮詣りに長男の住む、滋賀の草津の立木神社にお詣りしました。
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嫁のご両親と孫二人、合計8人で初宮参り。

ここの所、仕事の合間は90過ぎの親3人の介護で忙しい僕らは、今回の初宮参りも嫁のお母さんのお世話になりっぱなしで。

初孫も二人目も、初宮参りの衣装は、嫁が幼い頃に着た衣装を大事に保管されてきたものだと伺っています。

息子たち二人のお宮参りの衣装は家内も大事に保管していますが、もう出番は無いかもしれません。

この時代に、何が何でも男の子を産めとは私たちは思っていませんし、かえって女の子二人姉妹というのも良いのでは・・・なんて思っている僕たち、じいちゃん、ばあちゃんです。

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御祓いの後、おみくじを引いて本殿にもお詣り。
今年4歳、幼稚園に通うお姉ちゃんは、とても活発で元気な子に成長しました。

お姉ちゃんの着ているお洋服も嫁のおさがりだと聞いて2度びっくり、わずかなシミを恥じるように説明されるお母さんですが、30年近くも経ったものとはまったく思えない、オニュウの様に可愛いお洋服でした。

今まで大切に保管されてきたお母さんの思いに、娘のいない僕らはただ称賛の気持ちでいっぱいになりました。

長男宅へ帰宅、昼食後にぐずりだした赤子に母乳を上げる時間になり、お姉ちゃんと僕ら夫婦は3人で近所の公園へ。
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夏休みが終わって、元気いっぱいのお姉ちゃんは、ここの所遊び足りないと見え。

9月とは言え、まだまだ暑さが応える午後の公園でも、大汗掻きながら、縄跳びしたり、走りまわったり。

この後、帰宅後もまだまだ遊び相手をたっぷりとさせてもらい、十分満足して、くたくたで帰阪した僕たちでした。

幼子の子育ては手間がかかります。
しかしそこには成長と将来と希望というものがたっぷりと存在します。
たとえくたくたになるまで遊んだあとでも、晴れやかな喜びが僕の心に残ります。

先ほど仕事の合間は、親の介護で忙しいと書きましたが僕たちは親の在宅介護をしているわけではありません。

僕の母は8年前、大たい骨転子部骨折後、入院中に認知症が進み、退院後は老健に一時入所し、3年後、自宅近くの特養に入る事が出来て幸運でした。

しかしそう思うのは僕たちだけで、母自身がそう思っているわけではありません。

今年99歳の母は中度の認知症で、面会に訪れた僕の顔をみると嬉しそうに反応し、かろうじて判りますが、家内が施設に同道しても、家内の認識は出来ません。

母との会話は他人が聞くと、常人のようでしっかりとはしていますが、3~5分くらいでリセットされるかのように、同じような会話を延々と繰り返すことになります。

何時も1時間ほど母と二人でいると、僕は会話に疲れ、施設を退散することになります。

母は要介護2級。両足の大たい骨転子部骨折後は歩行は困難で、車いす生活ですが、薬は食後の整腸剤くらいでほぼ薬物の助けはいらないほど体は健康です。

広い施設内に居る限り、車いすで介助なしで、自力移動が出来、トイレも、ベッドに入るのも一人でできます。お風呂も見守りと補助程度で大丈夫です。

しかし僕の住んでいる古い木造住宅では車いす生活はほぼ無理、バリアフリー改築どころか、新築しないと母の在宅介護は無理でしょう。
また認知症はひどくなりつつあり、眼は離せない状態です。

その母が此処の処、僕が面会に行き、30分も話して居ると、帰りたい帰りたいと泣き叫びだすのです。『こんな年寄りばかりの処に居るのはもう嫌だ、こんなところに居るのなら死んだほうがましだ、首攣って死ぬ』とまで言い出すのです。

おまけに最近耳が急に遠くなり、僕の言い訳がましい説得も、大声を出さないと聞えないし、それでも理解できないし、油に火を注ぐように興奮するばかりで全く手が付けられない状態になってしまうのです。

母の帰りたい『家』というのが、昔生まれた三重の山中の生家の事なのか、家族で住んでいた、今はもう無い実家の事なのか、僕の家の事なのか、そんなことさえ、もう判らなくなっている母。
時にはいつの間にか、僕が母の兄弟になったり、父親になることさえあるのです

思いはただ家族と住みたいと言う一念だけです。

次第に興奮して叫びだし、施設のヘルパーさんになだめられて、何とか、やっとお別れして帰ることが最近はあるのです。

以前は『また来てね』と微笑みながら、エレベータ前まで見送ってくれてお別れできたのに。
こんな日は、気まずく、悲しく、心が晴れない日になります。
そして次に行くのがついつい気後れして、日が開いてしまうのです。

家内の両親は95歳と91歳、僕の母と違って商売をしていた加減か、二人とも耳は遠いが、頭はしっかりしています。訪れると茶の間のテレビが大音量で会話が出来ないほど。

それでも、大阪市内で80半ばまでは、二人きりで頑張って暮らしてくれていました。

義父は今、肝臓の末期がんですが、進行が遅いのか、医師が驚くほど奇跡的に痛みが未だ無く、在宅看護と、今春、要介護2級にはなり、着実に衰えてはきているものの、義母に支えられてなんとか暮らしてきてくれていました。
今年の5月の暮に体調を崩し、愈々いけないかなと思いましたが、奇跡的に今は回復しています。

義母も母と同じく両足の大たい骨転子部骨折後はかなり不自由になりましたが、何とか歩けるまでは回復し、要支援2級で掃除などの家事の介護は受けていましたが、まだ料理や買い物くらいは何とかできていました。

昨年に義母のベッドを、今年からは義父のベッドも、それに仏壇も、一階の元、店舗兼仕事部屋だった広い部屋に下ろし、今までの住居だった2階の3部屋は物置部屋になりました。

その母がこの夏前頃から急に足が衰え、8月に家で尻もちをついて、仙骨骨折。

介護度を上げてもらう認定手続きを急ぎ、先行で毎日ヘルパーさんに入ってもらう準備をしていた処、医者からは安静を言われていたのにもかかわらずついつい無理に家事をして、右足に骨折による神経痛が出だして、とうとう8月末からダウンしてしまいました。

今は毎日ヘルパーさんに入ってもらえるようになり、家内と僕は日曜と平日に一度は必ず、訪ねていますが、大正生まれの二人に介護制度を理解させるのは、かなり難しい事で。
少し元気だと、ヘルパーさんに、『毎日は要らん』とか、『今日は用事は無いから帰って』等と嘯く二人に、悩まされる事がしきりでしたが。

いよいよ、動けなくなって、ここの所はそんなことを言う元気も無く。

僕に、『息子でも無いあんたには本当に世話になってありがとう』と言いつつ、
『長生きしすぎた、もう早く死にたい』と 僕の母と同じく、そんな嘆きを最後には聞かされるのです。

今日も夕刻帰る前の家内との会話はそんな調子、帰りの車の中では心が疲れ、夫婦二人しんみり。

介護というものは、やってもやっても、相手は衰えるばかりで、それを終えるのは死を迎えた時!

する方にも、される方にも、満足、希望、喜びというものが無いのです。

今回は嬉しい事と悲しい事を一緒に書いてしまいました。

息子よ、孫よ、すまん。 母よ、義父と義母にもすまん。

最近溜まっていることをここで書いたら、少しは気が晴れるかなぁと思ったけれど。

気が晴れるのは、孫と遊んでいるときと、サイクリング中だけやなぁ・・・。